助手席の人へ人生を託しますか?

車の運転をされる方で、こんな経験をされた方はいないでしょうか。

「はい よく前をみて~」

「ほらパッシングで合図しないと!」

「青だよっ 早く走りなさい」

「抜くときはサッと抜くんだよ」

「あらら ほら言ったこっちゃない」

…とか。

ハンドルを握っている身としては「うるさい!」となるんですよね ほんとに。

とくに走り慣れてない土地でこんなこと言われた日には運転手としてはカチンとくるわけです。

そして確かに言ってる内容が的はずれでないこともままあるので、イライラは相当なレベルになることも。

これは単なる笑い話ではなく、この手のイライラが実際に事故につながることもあるので、運転手としては助手席に限らず、同乗者には出来れば黙っててほしいものです。

ですがここで一つ、助手席から運転手へのアドバイス被害という観点からだけではなく、他人からの何気ない発言が、ある人物に影響を与える、という観点でこの構図を捉えかえした時、また少し違った関係性をあぶり出すことになります。

★Rをゆらがす

同乗者が運転手に余計なことを言うことは、運転手にとって少なからずストレスになるものですが、一方で、この余計な発言が実際には正しい場合もあるため、運転手が抵抗していても、ある時その正しさ(ように聞こえる)が故に、逆にアドバイスをくれる同乗者を聞き入れてしまう瞬間があります。

運転手がそのアドバイスを真実であると受け取ってしまうのです。

さらに、実際にそれが正しいルートや的確な判断だと悟った場合、そこに同乗者に対するある種の信頼が芽生えていきます。

この信頼を、心理学では’ラポール’といいます。

この時、当事者同士では、単に指示を出した、指示を受け入れた関係となりますが、心理的には、指示を出した者がそれを受け入れたものを支配できる可能性をもつようになります。

受け入れた側は、指示を出した者に依存する状態として存在することになるのです。

そしてこういった状況を機に、このやり取りが続き、さらに強化されていった時、いつしか、何かを発言指示してくる者に意識無意識を問わず、その言いなりになってしまう。

★支配と被支配の関係

支配する者は、最初、相手の見ているがままの現実を指摘し、その見ている現実の一部を変化させるように仕向けてきます。

見ているがまま、とは、当人がその時、その主体性として実感として感じているあるがままの現実すべてを指します。

これを’R'(リアリティ)といいます。

支配しようとする者は、それをその当人が拒絶できない部分から指摘して変えようとするのです。

運転でいえば、運転手が見ているであろう、感じているであろうそのままの状況を指摘して、やれ早く曲がれだの、もっと早くブレーキをかけろだのと、運転手の世界(R)を、その指示によって変えようとしてくることがそれにあたります。

つまり、変えようとすることで、このRを運転手本人から奪うかたちなるわけです。この状態を、Rがゆらぐ、と言います。

これにより、運転手は自分の見ている、感じている世界を、同乗者に譲り渡してしまうことになります。この時、本人にはその意識はありません。

これは言い換えれば、同乗者の言われるがままにされてしまうことを意味します。

これってちょっと怖いことだとおもいませんか?

私たちは普段、何気ないかたちで様々な人と接しています。そして、それこそ特に意識もせずに、友達や家族、外出先では不特定多数の人々といろんな触れ合い方をして生きているものです。

でも、そんな普通の、否、あまりに普通過ぎるコミュニケーションの中にこそ、相手の意識を本人にも悟らせることなく操作しようとしてくる者が存在しているかもしれないからです。

車内での家族同士の他愛もない話しからは、まさかそんなことにはならないかもしれませんが、誰かを支配することによって、何らかの利益を得ようとする人間は、案外、極普通を装っていたりするものなんです。

そうです。  助手席のお父さんは、それが心からの親切心からくるアドバイスであったとしても、本音は、単に息子の運転を自分の思い通りにさせようとしているだけ、だったりするんですよね。 でもそうであれば、そのアドバイスは、やっぱり息子の意思とは違うんです。

これは決して大袈裟な話しではなく、いかにもっともらしい他人の意見でも、それを聞いた時には、いかなる時も、自分みずからの思考を通して処理し、違うものは違うと、自らの意思をしっかりと保持しておくことがとても大事なことだと、こういった話から汲み取り、自らの未来のための指針としていきたいものです。

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